9/11 : Open Hearts in a Closed Sky
1. あの日の記憶
ショッキングで感情的インパクトの強い出来事が起きた時、人間はその時の状況を鮮明に覚えているものです。心理学の世界では Flashbulb Memory(フラッシュバルブ記憶)と呼ばれています。
アメリカ同時多発テロがあった時、僕は日本で、当時両親が暮らしていた家にいました。アメリカから一時帰国していた時期で、都内の在日米軍基地に勤務していました。テレビには NY(ニューヨーク)の WTC(ワールドトレードセンター)に飛行機が突っ込む映像が何度も映し出され、こんな天気の良い日にどうしてこんなことが起こるのだろうと不自然に思いました。2機目が衝突した時に、明らかにおかしいと感じました。
確か WTC が崩壊する前だったと思います。上司から電話が入りました。しばらく職場に来なくてもよいと。日本にある米軍基地も閉鎖され、従業員であっても基地には入れない。相当なことだなと思いながらも、米国人以外は誰も信用できない状態であるのだろうと察しがつきました。1週間ほど家で待機をしていた記憶があります。
たまたま NY に旅行していた同僚は無事でしたが、帰国できないまま3週間を過ごすことになりました。テロの前日に WTC を訪れていたそうです。この同僚、霊感がある人で、夜になると頭の中でいろんな人の叫び声や助けを呼ぶ声がやまず、その晩はまったく眠れなかったと話してくれました。
また、このテロが起こった時間帯にフロリダの空港から出発しようとしていた友人は、突然離陸許可が取り消され、何が起こっているのかさっぱりわからなかったと言っていました。管制官たちも、システム上すべての出発が取り消されたという事実しかわからず、理由は不明な状態。全米がパニックに陥っていました。
この事件は多くの人の運命を変えました。僕もその一人です。アメリカの航空業界で働くためにアメリカの大学に進みましたが、このテロをきっかけに、当時は外国人としての就労をあきらめざるをえませんでした。生死に関わる運命だけでなく、仕事や生活の選択肢が突然閉ざされ、その後の人生が変わった人まで含めると、ほんとうに無数の人生を狂わせた出来事でした。
あれから明日で25年。この事件を知らない世代がいることに最近は驚くこともあります。まるで昨日のように覚えている出来事だからです。記憶は薄れるどころか、年々輪郭を増していく気がします。
2. 世界が止まった日
毎年この時期になると、当時の救出に関わった人たちの新しいインタビューやドキュメンタリーが放送され、悲惨な記憶が蘇ります。同時に、その裏に温かい物語もあったことも、最近知りました。
この緊急事態でアメリカの空域は完全に封鎖されることとなり、国内を飛んでいるすべての民間機は、可能な限り速やかに最寄りの空港へ着陸することを指示されました。
最寄りの空港といっても、それぞれの空港には受け入れる飛行機の数に限りがあります。週末、ショッピングモールの駐車場が満車状態で入れなくなるのと同じです。誰でも空港に向かえば降りれるというものではありません。東日本大震災の時は、羽田・成田に降りることができなくなった飛行機は、札幌の千歳や、名古屋の中部空港まで行きました。当時の新千歳空港では普段使用しない駐機場までびっしりと、見たことのない数の飛行機が並んでいたのを覚えています。
NY に近いカナダ全体では200機以上の飛行機を受け入れたそうです。そしてその後やはり空域を閉鎖しました。カナダの各主要空港へ受け入れられた数々の飛行機のうち38機は、北東にある Gander という小さな町に降り立ちました。地図で見てみると、Quebec(ケベック州)の東に位置することがわかります。まったく無名の、まさに北米の最東端にある空港です。
僕も最初にこの場所を調べた時、こんな田舎町の空港に十分な長さの滑走路があるとは思えませんでした。こんなに多くの飛行機がこぞって降りるには、よほどの理由があるはず。調べてみるとなんと、第二次大戦中に軍用機の中継基地として使われていた歴史があり、ジャンボ機でも降りれるとても長い滑走路や施設があったのです。納得しました。
しかし考えてもみてください。普段は一日に数便しか来ないこの静かな空港に、突然38機もの国際線使用の大型機が次々とやってきたのです。旅客数は総勢7,000人。この町の当時の人口は9,300人。明らかにキャパオーバーです。こんな観光地でもない町に、当然ホテルなんてありません。降りたはいいが、この先いったいどうするのか。
北米の民間航空は約3日間に渡って停止し、その後限定的に再開し始めるものの、結果的にこの “The Plane People” と呼ばれた7,000人もの人たちは、5日間この町に滞在することになります。
3. 7,000人の家族
95か国から来た人々の中には英語が通じない人たちも。市長の Claude Elliott は、学校や店をすべて閉鎖し、町全体で The Plane People を受け入れることを決断しました。7,000個の寝床を用意するために、教会や体育館などを解放。我が家に見知らぬ人たちを泊めた家族もたくさんいたそうです。24時間体制で提供した食事の数は285.000食。ボランティアの数は6,000人。冷蔵庫の代わりに大量の食料を保存する場所として選ばれたのは、アイスホッケーのリンク。さすがカナダだと思いませんか?
人間だけではありません。このなかには、一緒に移動をしていた犬や猫などの19匹のペットも含まれます。車のキーを渡して「ドライブしてきていいよ」と言ってくれた家族もいたそうです。この5日間、全市民が親身になって The Plane People を手厚く支援し、その結果、彼らのホスピタリティに触れた旅客たちと市民との距離は、最後にはとても近くなっていたのだそうです。
市長の言葉がすべてを物語っていました。
On the first day, we had 7,000 strangers. On the third day, we had 7,000 friends, and on the fifth day, we lost 7,000 family members.
初日は7,000人の見知らぬ人がいた。3日目には7,000人の友人になった。そして5日目、7,000人の家族を失った。
この感動の物語は後に “Come From Away” というミュージカルになり、世界中で上演されました。NY の Broadway では Tony Award(トニー賞)、ロンドンの West End でも Laurence Olivier Award(オリヴィエ賞)を受賞し、他にも全世界で多くの賞を受けています。
この7,000人の中には、WTC の跡地に建設された National September 11 Memorial Museum Pavilion(写真)の設計を担当することになる、建築家 Craig Dykers もいました。彼が感じた人々のホスピタリティは「こんな時でも自分たちは生きているんだ。今でも人々は共存しているんだ」という現実を感じさせ、パビリオンのデザインのインスピレーションにもなったと明かしています。建物部分は “現在”、水の流れるメモリアル部分は “過去” 、というコンセプトは、彼の人生を完全に変えたという Gander での出来事から生まれたそうです。
インタビューでこうも語っていました。
I felt the best of humanity and the worst of humanity.
人間の最高の面と最悪の面を、同時に体験した。
9月11日は、人間の善さと残酷さが同じ場所に現れることを思い出させる日です。
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